何年ものあいだ、私たちは内向型と外向型について、心地よい物語を聞かされてきた。その物語はこうだ——外向型は浅はかな演者で、人混みからエネルギーを得る。内向型は深く、本物の魂の持ち主で、人といると消耗してしまう。けれど、私たちが実際にどう生きているかを見れば、この物語は音を立てて崩れていく。内向型と外向型は対極ではない。ほとんどの場合、どちらも「自分らしくいるのは危険だ」と感じさせる世界を生き抜くための、ただの対処法にすぎないのだ。
1. 内向型と外向型について、私たちが語ってきた嘘
外向型についてよく語られるステレオタイプは、「あの人は浅い」というものだ。見た目や世間体しか気にしておらず、溶け込むために外向きの仮面をかぶり、自分が本当は何を望んでいるのか腰を据えて内省しようともしない——そう思われている。これには寛容な解釈もある。つまり、彼らはただ承認を求める気持ちが強すぎるあまり、内側ではなく外側を見てしまうのだ、という説明だ。
そして対になる信念がある。内向型こそが本物だ、というものだ。内向型は自分の深い価値観とつながっており、より統合されていて、より誠実である、という考え方だ。
私は、それは嘘だと思う。
内向型の人と正直に話せば、ほとんどの人がこう言う。他人の前で自分らしくいるのは、痛いほど難しい、と。多くの内向型は、完全に一人に戻ったときだけ、自分は自分でいられると感じている。グループでの会話に足を踏み入れた瞬間、喉が締まる。どう口を開けばいいのかわからない。自分の感じていることをどう言葉にすればいいのかわからない。そして誰かに誤解されるのではないかと、絶えず不安になる。だから沈黙を選ぶ。
両者を並べてみると、何が見えてくるだろう。
- 外向型は言う。「一日中人の中にいるのに、それでも完全に一人ぼっちだと感じる。」
- 内向型は言う。「一人でいるときだけ、自分が自分でいられる気がする。」
二人はまったく同じ問題と格闘している。つまり、どちらも、他の人間の前で自分らしくいる方法を知らないのだ。
そこに気づくと、内向性や外向性は、多くの場合、固定された生物学的な宿命ではないとわかる。それは防衛戦略だ。「率直で、無防備でいることは危険だ」と感じられた社会的環境の中で、私たちが身につけてきた対処法なのだ。
2. 社交というチキンレース
私たちは何時間もスマホをスクロールしながら、心からつながれる誰かを探している。自分のままでいさせてくれる友人を欲している。
それなのに、いざ誰かと顔を合わせると、すぐに「社交」というゲームに戻ってしまう。どう自己紹介すべきか。何を話していいのか。どこまで踏み込めば気まずくならないか。変なことを言って笑われたらどうしよう。
それはチキンレースになる。二人は慎重に相手の周りを回り、複雑なことや無防備な話題には、裁かれるのが怖くて手を触れない。そしてどちらも、本当に大切だったことを話せばよかったと願いながら、空っぽの気持ちでその場を後にする。
内向型同士なら、世界でいちばん簡単に友達になれると思うだろう。ところが、内向型の友情はしばしば完全に停滞してしまう。
二人とも火花を感じている。二人とも、何か本物のことが始まるかもしれないと感じている。それでも、どちらも動き出そうとしない。最初の一歩を踏み出すこと、心を開くこと、会おうと誘うことを、どちらも恐れている。だから二人ともスマホのそばで、相手から連絡が来るのを待っている。数週間が過ぎ、数か月が過ぎる。そこに恨みが忍び込んでくる——「どうして連絡してこないんだろう。前回は私から送ったのに。今度は相手の番じゃないの?」
それは、スローモーションで繰り広げられる、同じチキンレースだ。
3. 「ホスト」というペルソナの疲労
もうひとつの神話は、外向型は社交から無限のエネルギーを得る、というものだ。
外向型の人に二人だけの場で尋ねれば、ほとんどの人が、社交のあとはしばしば疲れ果ててしまうと認めるだろう。エネルギーは、人がいる部屋に身を置くことから生まれるわけではない。その人たちと一緒にいてどれだけ安全に感じられるか、どれだけ受け入れられているか、そして自分がどんな役割を演じなければならないと思っているか——それによって決まるのだ。
外向型は、独特のプレッシャーを背負っている。自分が社交的な人、面白い人、ホスト、場を点火する存在でなければならないと感じている。会議でも、食事の席でも、グループチャットでも、自分が会話を回さなければ、その場全体が気まずい沈黙に崩れ落ちてしまうと感じている。
そのプレッシャーは、いつまでも脱げない衣装になる。
- 「誰かが退屈しているなら、それを楽しませるのは私の役目。」
- 「場の空気が沈んだら、私が何とかしなきゃ。」
- 「みんなが気楽でいられるように、私が楽観を演じなきゃ。」
私が話をする多くの外向型は、一週間ずっと「オン」でいたことから回復するために、丸一日、鍵をかけて電話を切り、誰とも口をきかずに過ごす日が必要だと言う。
だからこそ、外向的に見える人の多くが、密かに自分は内向型だと感じている。自分の社交性は衣装にすぎないと気づいているのだ。静かに本を読み、自分の考えの中に座っている一人の自分こそが、唯一本物の自分なのだと感じている。
自分の公的な姿をパフォーマンスとして扱っているのなら、社交で消耗してしまうのは当然だ。
4. 心の「門番」を手放す
私の著書Why I Loveでは、つながりとオーセンティシティについて一章を丸ごと割いた。書いたのは、私たちが「本当のつながり」とはどんな感覚だったかを忘れてしまったと思うからだ。
私たちは、つながりとは練習済みの台本を暗唱することだと思っている。誰にでも「安全な話」がある。今の街に引っ越してきた経緯、パートナーと出会ったいきさつ、大学で取った学位、どうやって今の仕事にたどり着いたか。その話はもう50回はしている。磨き抜かれた語り口と、気楽なカリスマで語れる。でも、語り終えたあとに、つながった感覚はない。退屈なだけだ。生きているものを、何ひとつ分かち合っていないのだから。
本物のつながりとは、暗記した思い出を語ることではない。今、自分の内側で実際に起きていることを分かち合うことだ。
そのためには、門番を手放さなければならない。
門番とは、あなたの本当の思考と外の世界とのあいだに立つ、内側のフィルターだ。すべての考えは、口に出してよいと許可される前に、点検され、磨かれ、分析され、完全に安全な形に整えられなければならない——そう主張してくる、あなたの一部だ。
門番は、みっともなく見えることからあなたを守ってくれる。しかし同時に、あなたを独房に閉じ込めてもいる。
本当の会話は、未完成の思考を誰かに見せる覚悟をしたときに生まれる。少し不器用なことを言ってしまう。ある決断について自信がないと打ち明ける。まだうまくまとまっていない気づきを分かち合う。そこには傷つきやすさがあり、さらけ出されている感覚がある。しかし、そのさらけ出しの瞬間こそ、親密さが入ってくる扉なのだ。
5. 友達は、本当は何のためにいるのか
10年前の、安全で決着済みの話をするためだけに友達が必要なわけではない。
必要なのは、今あなたの人生に起きていることを、一緒に歩いてくれる友達だ。
- 今日、仕事で何が引っかかっている?
- 今週、パートナーシップのどこが難しい?
- まだ説明の仕方もわからないけれど、頭の中で格闘している新しいアイデアは?
- 将来について、何が怖い?
友達は、あなたの過去の履歴書を眺める観客ではない。友達は、あなたの現在と未来をともに歩く同行者だ。今いる場所から話すとき、話すというその行為の中で、あなたは自分自身について学んでいく。
自分らしくいることは、力を要さない。あなたの脳は今、あなたが無理に働きかけなくても思考している。あなたの感情は今、何の努力もなく動いている。演じるという条件を捨てれば、誰かと一緒にいることは、一人で部屋に座っている以上のエネルギーを必要としない。
疲れた一週間のあとに友達から電話が来て、その人と一緒に自分らしくいられるなら、追い払う必要はない。招き入れて、ソファに座って、正直に言えばいい——「今日はへとへとなんだ。でも来てくれてうれしいよ」。それは消耗ではない。それは休息だ。
演じることを手放す
あなたの最も親しい友情や、日々の社交の場面を思い浮かべてみてください。あなたは今もどこで、盛り上げ役、ホスト役、あるいは黙った観察者を演じていますか? 安全な台本の代わりに、今週ひとつだけ分かち合える、少し不器用でも正直な考えがあるとしたら、それは何でしょう?


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